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作品というのは神様だと思う。制作者というのは教祖だと思う。だから信者っていうのは教祖に味方するんだ。アンチっていうのは教祖に楯突くんだ。だから信者とアンチは相容れない。神様置いてけぼり。でも神様っていうのは本来そういう性質のものであって、人間が勝手にドンパチ抗争やってるだけなんだよ。神様っていうのは基本的に何かをするものじゃない「存在だけ」の存在。そこに集る人間があーだこーだ自分や自論を正当化させようとして、やってるだけなんだな。

教祖に味方して正義をかざす者もいれば、他者に楯突かれても必死に戦う健気な自分を想像して悦る信者もいるわけで、考え方の次元が違う者同士が論争してる。そう考えると人間ってめんどくせーってなるんだ。自分も人間だけど。

とりあえずどう考えても擁護不可な要素があって、そこをぶっ叩かれてるキャラクターをいくら庇っても、自分自身が認められてる訳じゃないからもうやめておけと思うことがたまにある。どうもああいう手合いは擁護不可要素有りのキャラクターを庇うことで、自分自身を正当化しようとしてる気がするんだ。実はぶっ叩かれてるキャラクターをじゃなくて、自分自身を庇いたい。ぶっ叩かれてるキャラクターを庇ってる自分を認めてほしくて吠えてるように見える。自分の論理を顧みずに、理屈がその場しのぎになってる事にも気づいてない。信者だけでなくてアンチにも云えるけど、客観性を失ったらおしまいだ。妄想で他人を叩くようになったらおしまいだ。

そんで、それらを煽るのが教祖っていうね。そして神様はやっぱりそこに坐すだけなんだけど、教祖に煽られてる事に気付かない信者とアンチと巻き込まれた第三者が、分かりやすい形として現れてる神様を攻撃するんだ。そこに人がいる限りは揺るがない構図だと思うんだよ。

好きの反対は無関心、嫌いってことは心に残す何かがあるからでしょ、他人に何かを残したもん勝ち、みたいに云う人もいるけど、自分はやっぱり好きの反対は嫌いだと思う。自分の好きなキャラクターや作品に、呪いとか怨念とかが区別出来ないくらいドロドロになるまで混じった、破裂するくらいの「嫌い」の念が詰め込まれても、嬉しいか? 勝ちって云える? 自分は嫌だよ。